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| ■ビバ☆宮古 |
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3年D組 小笠原 直樹
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花園という夢舞台を目指し、3年間いろんなモノを犠牲にして頑張ってきた(つもりだった。)けど決勝の日に私達に待っていたのは、勝利でもなく花園でもなく 敗北 そして引退だった。
中学の頃から高校ではサッカーをしようって思っていた。けどいつの間にかあのビデオを見せられ、いつの間にかラグビー部員なっていた。最初はルールがさっぱり分からず「ラグビーって何!?」って感じだった。一番最初のミーティングでケータイを鳴らしたのは俺です。「誰や!?」ってしらばっくれてごめんなさい。1年の時は、N先輩が怖くてM佳とかEなりとかと「辞めっぺぇ」って言ったり、菅平でI先輩に怒られるのが嫌でサボったりしていた。
2年になり、試合に出してもらえる様になったことも影響して、俺はかなりヤル気があった。2年の時が一番頑張ってたし、ラグビーが好きだった気がする。だから決勝で負けた時、張りつめていたモノが切れてしまった。3年生は越えられないと思った。
3年になり、新人戦で盛工相手に何もさせてもらえなかった。自分の弱さに直面し、花園の遠さを痛感した。希望を失い、ラグビーが嫌いになった。俺は2年の時ほど体をはらなくなった。ラグビーに夢中になれなかった。叱ってくれる先輩がいなくなった事に甘えていたのかもしれない。せっかく選ばれたAll岩手もケガで棒にふってしまい、菅平は毎日ビデオだった。申し訳なかった。
3年目は大会直前にいつもパラっていた。Yっちにやられて肉離れ(疑惑)して秋工戦に出れなくてショックだった。けどもっとショックだったのは、岩手で骨を折った事だ。医者に「予選に間に合わないかもしれない」って言われて家で泣いた。ウェイトは全然しなかったし、毎日ただパラっていた。「パラって楽だなぁ」が俺とEなりの口癖だった。
予選の日はあっという間に訪れた。俺は使い物にならない程弱く遅くド下手になっていた。決勝は太治も新川もいたけどやっぱり負けた。ノーサイドの笛の時、涙が出なかった。
決勝で闘えた満足感と後悔の念が入り混じっていた。テレビに映っててラッキーだった!!
そんなこんなで私のラグビー人生はそれなりに楽しかった。11人だけだったけど、キャラの濃い11人だった。ありがとう。出発の日、柏と校庭で泳いだことや、2年の時色々あって10人でトップをやった事、かかとを折ってて蹴られた事とか、予選出発の日にアパートの柵を乗り越えて柏と2人で看板を読まされたこと(しかも2回)は一生忘れません。皆元気でやってね。毎年12月28日はS大ん家に集合して!!
後輩へ 1年間悔いが残らないように頑張れ!!結果はついてくると思う。宮高の時代が訪れることを期待しています。
最後に、弱い弱いと言われあまり期待されていなかった私達が決勝まで勝ち進むことができたのは、たくさんの支えがあったからです。濱崎先生、去石先生、鈴木先生、船越さん、金丸先生、山内さん、前川さん坂下さん、そして父母会の方々、本当にありがとうございました。
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| ■生いたち |
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3年E組 佐藤 正佳
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私はラグビーをするつもりはなかった。しかし、彼との出会いが人生を変えてしまった。それは2001年1月某日、某高校の入試の時に隣が彼だった。彼に宮高のラグビー部に入ろうといわれたような気がするが私は、バスケかテニスがしたかったので流していた。(彼はのちにラグビー部のキャプテンとなりました)なんだかんだで無事、宮高に合格した。安心したのもつかの間、なんと彼と同じクラスになってしまった。人生が終わったと思った。それから勧誘の嵐だった。いろんな部活の人が勧誘に来たが一番しつこかった彼とラグビー部の方々に負けて入部を決意するのであった。
1年の時の最初は楽しかった。高校の部活はこんなにも楽しいのかと生きがいを感じていた。だが。5月の骨折をかわきりに6月の3年生とのAD、7月のあの悪夢の出来事が決定的に私を退部へと走らせた。(とにかく7月は最悪なことがありすぎ思い出したくないので省略)ラグビーが嫌いになった。ルールが分からなくてつまらなかった。この頃からサボれば辞めれると思い、よくサボるようになった。彼以外の同じクラスのラグビー部の人達とバドミントン部を作ろう等と言ったものだった。しかし、真由美さんにがっつら説得され事なきを得ました。今では本当に感謝しています。ありがとうございました。1年の頃はこんな感じで過ぎていきました。
2年になり高総体で初めてレギュラーとなったが、いざ試合となれば何をするわけもなく、為にもならず、迷惑もかけ高総体は去っていった。2年の時と言えば県民体だろう。初めて盛工に勝ったし優勝してしまったからである。しかしながら(However)決勝でのインゴールノッコンはうつ病発症の原因となった。うつ病と言えば全岩手に選ばれて参加したときも発症した。場違いであったのもあるが、全京都や全青森との試合でビビりまくったのもあり、とても情緒不安定となった時期であった。そんなこんなで気が付いたら花園予選決勝となった。しかし、この試合は私のせいで負けてしまったのだ。なぜならばトライを取れず直前にコンタクトレンズが取れてしまったのだ。コンタクトが取れてから、モールが押され始めトライにつながったと私的考察から考えられます。プラス私が弱かったなど・・・本当に申し訳ありませんでした。
自分達の代となり妥協しまくった。どのようにしたらフィットネスが楽かつ速くなれるかを寝る間もおしんで考えたものだ。こんな私がなぜゲームリーダーに任命されたかは今でも不思議である。不思議といえば関東選抜の候補に選ばれたことも不思議である。とりあえず行ってみたものの場違いというか次元が違かった。クリスチャンとの1対1のコンタクトの触れ合いで泣きそうになったのを覚えている。外人の強さを知り、自分の弱さを知った。(以下省略)こんなこともあったが部活はホント楽しかった。生きがいであった。体育とラグビーをするためだけに学校に行っていたようなものであった。気が付いたら花園予選の決勝となっていた。相手は盛工だった。前半さえしっかり抑えれば勝てると思っていた。試合は始まった。気が付けば前半が終わっていた。何も覚えていない。ただはっきりと分かっている事は負けている、大差で・・・。引退まで残り30分などと考え諦め始めていた。後半になり駄目押しのトライをされた瞬間負けたと思いめっつるが出そうになった。完全に諦めた。しかし、皆は諦めていなかった。「諦めんなよ」と言われ目が覚めた。逆転してやっか〜という気持ちになった。その頃からいい流れになった。後半のロスタイムで10ヶ月間温存していたサインでトライすることができ嬉しかったが、無情にも長いホイッスルが鳴ってしまった・・・・・・。
こんな感じで3年間はすぎていきました。妥協しまくって今でも後悔しています。でも、宮古高校ラグビー部に入部して本当によかったと思っている。いろんな所に行ったり、いろんな人と出会ったが、みんなと出会えてよかったと思っている。本当に、本当に、本当にありがとう。
また、今までご指導してくださった濱崎先生、去石先生、鈴木先生、金丸先生、いろいろお世話になった父母会やOBの方々本当にありがとうございました。
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| ■め組の大吾 |
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3年D組 柏崎 達
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どーも、僕です!! 私もついに高校生になり、高校生活をエンジョイしたのである。それは、ラグビーという素晴らしすぎる競技との出会いがあったからに違いない。「ボールは友達さ!!」と、キャプテン翼は笑顔で言っていた。それに刺激を受けて、寝る時もラグビーボールを時々抱きしめて寝たりした。でも、ボールと友達になる事は出来なかった・・・。
とにかく自分はケガが多かった。ストレッチでケガをしたのは、一生忘れられない思い出になるでしょう。そんなこんなで毎日が楽しかった。1番心に残っているのは、2年の県民体だろう。プレートでの優勝!!盛工を負かした喜び!!幸せでした!!みんなで泣いたねぇ。太治の顔は泥まみれで何者かよく分かりませんでした。ブヒッ!!
あっという間に時は過ぎ、決勝のグラウンドで泣いている僕達がいた。宮高ラグビー部は花園の切符をつかめなかった。ノーサイドの笛が鳴っても実感はなく、清史がトライしてみんなが喜んでいる姿を見たら、「まだいける!!」と思ったからだ。試合が終わっても泣けなかった。応援してくれたみんなに挨拶をしてベンチに戻る時、大久保の後ろ姿を見て初めて泣いた。ケガしてもまだ出ようという姿がマジ感動した。でも、僕達の夢は終わった。新チームは絶対花園に行けると思う。下川を始め、ラグビーに情熱を注ぐ奴が多いからだ。ナショーの筋肉大好きです!!野邑の筋肉も大好きです!!みんな「目指せ、太田陽之」で、すごい体を作ってください。(注)雄大みたいにはならないでね。
こんなにたくさんの思い出があるのもラグビー部に入ったからこそでしょう。大会に行く日、台風でプールみたいになった校庭を直樹とパンツ一丁で泳いだこともありました。なぜか次の日、カゼをひいてしまいました。「ラグビーは喧嘩だよ。」と言ったあの言葉は今でも心に残っています。ラグビーは紳士のスポーツだと思っていた僕の心は辛く痛みました。そういった気持ちが偉大な人にさせたんだなと尊敬しています。濱崎先生、いつか極上の寿司を食べれるようなbigな人になりたいと思います。三年間ありがとうございました。鈴木先生の花園予選前の練習後のタックルは僕達に勇気を与えてくれました。去石先生は優しく、カッコイイっす。ラグビーの事以外でもいろいろ教えて頂きありがとうございました。
熱き地に燃え立ちて・・・!!
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| ■三年間を振り返って |
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3年C組 坂本 大典
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私は、このラグビー部に入って、自分が3年間ラグビーを続けられるとは思ってなかった。練習は夏場が2時間30分、冬場は2時間と聞かされていたが、自主練(アフター)をしなければならないということを入部して初めて知らされた。
しかし、大下とのラインアウトのスローの練習をしたり、シーアリーナに行ったりして、楽しいアフターができたと思う。また、菅平や校内合宿は本当のことをいうと辛かった。1日2試合もやると体中打撲だらけで、逃げたかった。
3年になり、最後の花園予選、私はベンチからの応援だったが、プレーしている選手になりきったつもりで、声を出した。今年も決勝戦は盛工だった。高総体でかなりの点差で負けたので、あまりいい結果はでないと周囲はいっていた。
負けはしたものの点差は縮まり、例のサインも決まった。
3年間積み上げてきたものが、そこで終わった。私は、最後の仕事をして盛岡南球技場のロッカーに「ありがとうございました」と言って後にした。
後輩には花園に行ける力がある。チーム一丸となって目指して欲しい。
最後に、こんな私に指導してくださった濱崎先生、去石先生、鈴木先生、金丸先生、ラグビー部員、陰で支えてくれた父母会のみなさん、運転手の前川さんに坂下さん、大変ありがとうございました。充実した3年間を送れたのも、この方々のおかげだと思っています。これからも辛いことがたくさん待ち構えていると思いますが「乗り越えられない壁はない」の精神で頑張っていきたいと思います。
ありがとうございました。
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